じみたの歴史

1984~1985年(18歳~19歳)
大学1年目

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1984年4月13日(金)
☆理科大ジャズ研入部

1984年4月14日(土)
☆カルテーテと初めての飲み会
<カルテーテ>
<初めての飲み会>

1984年5月
☆「じみた」という名

1984年5月
☆ジャズ喫茶でヴォーカリストの丸山繁雄さんを紹介される
<丸山さんって誰?>
<トランペッター下神竜哉さん>

1984年5月
☆効果音テープでいたずら

1984年5月26日(土)
☆理科大ジャズ研の新歓コンパ
<新歓コンパ>
<翌日は……>
<彼はどこへ?>

1984年6月
☆中古パソコン「FM-7」を購入

1984年6月?
☆本をしまう場所は?
「理科大ジャズ研OB O橋さん」

1984年6月?
☆居酒屋「駒安」で「じみた基金」が始まってしまう

1984年7月
☆初めてフリージャズを聴く

1984年8月
☆理科大ジャズ研の夏合宿
<みんなより先に行って満喫した2日間>
<私の名前は?>
<オルガン合戦>
<山田杯>

1984年10月?
☆生まれて初めてのバイト
「居酒屋『駒安』での『人間リフト』」

1984年10月?
☆実現しなかった丸山繁雄 with じみたライブ
※実現しなくてよかった。なぜ?

1984年10月?
☆ライブ鑑賞
<新宿 ピットイン>
「丸山繁雄 酔狂座オーケストラ」
※初めて観たピアニスト板橋文夫

1984年?月
☆俺<φ(フェイ)>の練習時間は?

1984年11月3日(土)
☆理科大ジャズ研のコンサート
「じみた」
じみた(org → electone) まなぶ(ds)

1984年11月22日(木)~25日(日)
☆理科大の学祭「あけみ」
「じみた」
じみた(org) まなぶ(ds)
<1年生はつらい(クレマトップ事件)>
<じみたは真っ黒>
<じみたの父事件>
<マイルス小林氏はどんな人だったか?>

1984年12月8日(土)
☆理科大ジャズ研のバンド会議
<ピアノに転向させられる>
<1年生が先輩をクビ>
<すさまじい理大祭「あけみ」の打ち上げ>

1985年3月
☆留年決定

1985年3月
☆理科大ジャズ研の春合宿
<新札は使えなかった>
<西湖自転車一周と変な犬>
<トライアングル>




1984年4月13日(金)
☆理科大ジャズ研入部

 東京理科大学のジャズ研に入部。前々日の11日水曜にジャズ研の新歓コンサートを観に行き、ジャズ研に入ろうと決めた私は、この日初めて部室に顔を出しました。

 理科大のジャズ研は軽音楽部の3つのグループの中の1つで、他の2つはロックとクロスオーバーでした。当時は3つとも同じ部室を使っていました。

 夕方頃、部室へ行きます。着く前から壁に落書きが書いてあります。

  「なんてやつだ!」

何ヶ所も書いてあります。

  「なんてやつだ!真対は留年!」

……懐かしいです(^^)

 部室を覗きました。とても汚い狭い部室です。広さは3畳ぐらい。壁には同じ落書きが書いてあります。

  「なんてやつだ!真対は留年!」

意味がわかりません。机は今にもブッコわれそうなオンボロ。横にあるロッカーはヘコんでいます。その横の棚らしき所には譜面だか雑誌だかが積み重なっていて今にも倒れそうです。

 何人か座っています。

  「あのぅ、入部したいんですけど…」

  「どこ希望ですか?」

  「ジャズです。」

  「おっ、ジャズですかぁ。」
  「まあまあまあまあ……」
  「そこに座って座って。」

いたのはちょうどジャズ研の先輩たちでした。それともう1人、「M本」というジャズ研入部希望の1年生がいました。

 汚い椅子に座ると先輩が私に聞きます。

  「楽器は?」

  「ジャズオルガンなんですけど。」

  「えっ!ジャズオルガン?」
  「へぇ……」

早くも珍しがられます。

  「誰が好きなの?」

  「ジミー・スミスです。」

  「おお、さすがぁ~。」

何が「さすがぁ」なんだか……まあジャズ研のようなオタク的なクラブでも「何か楽器でもやろうかなぁ」というジャズを全然知らない人も入って来ます。ジミー・スミスなんて名前を出しただけで「こいつはジャズを知ってるやつだ」と思われたんでしょうね。

  「まあまあまあまあ……」
  「そこに名前と住所と電話番号と
   目指すミュージシャンを書いて。」

「まあまあまあまあ」……他のクラブに逃げられると困るので、先輩たちも新入部員を逃がすまいと、とても穏やかな言葉で声を掛けます。

 部誌を見ると、

  「C年」

とか書いてあります。そこに自己紹介を書きます。書いていると別のジャズ研の先輩が部室に入って来ました。

  「また入ったよ、C年(ツェーねん)。」
  「おう、C年(ツェーねん)かぁ。」

なるほど……私はヤマハ音楽教室のジュニア科でドイツ語での音階を習っていたのでわかりました。CDEFGAHC。なぜかBじゃなくてH。B(べー)はHのフラットですね。ツェー、デー、エー、エフ、ゲー、アー、ハー、ツェー。なるほど、

  「C年=1年」

ね。むかーし習った事が役に立っているというのが嬉しい。

 自己紹介を書いて、この日は終わりです。

  「明日ちょっとだけ
   演奏してもらうから。」

早速かぁ。人前でジャズの演奏なんてした事はありません。それにエレクトーンは基本的に1人で演奏します。他の人と一緒に演奏したのは何年前の事か。緊張します。

  「その後、」

先輩が飲む真似をします。

  「ちょっとコレだから。」

ははぁ、飲み会ってやつだな……飲み会なんてものはもちろん知りません。緊張します。

  「メシ一緒に食う?」
  「よし、シーメ行こう、シーメ。」

シーメ……バンド用語、というかドンバー用語というのも初めて聞きます。先輩たちと、もう1人の1年生M本と一緒に学食で夕飯。東京へ出て来て他の人と一緒に食事をするのは初めてです。

 食事が終わって、この日は解散です。私はこの当時、大学から歩いて10分ぐらいの神楽坂に住んでいたのですが、M本も大学から歩いて10分ぐらいの所に住んでいて、方向が同じだったので途中まで一緒に帰りました。

  「明日演奏だって?」
  「そうみたいね。」
  「緊張するね。」
  「うん。」

 私の理科大ジャズ研時代が始まりました。ジャズ研のC年(ツェーねん) 1年生です。楽器はジャズオルガン。全てはここからスタートしました。ちなみにエレクトーン出身の私はジャズピアノは全く考えていませんでした。

 さて、楽器ですが、1人アパート暮らしで鍵盤は何も持っていませんでした。何とかせねば。もちろんハモンドオルガンなんて高くて買えません。後日、コルグの安い鍵盤1段のオルガン1台、1万円の中古のよくわからない鍵盤1段のオルガン1台、コルグの足ベースを購入。右手用、左手用、足ベース、合計3楽器、バラバラ。う~ん……まあ何とかなるか。これでやる事にしました。



 ※ちなみに知らない人のために、バンド用語とはどういうものかを。

 「12345678」が「CDEFGAHC」ってやつ。お金もこれを使います。

  10000円=C万(ツェーまん)
  500円=G百(ゲーひゃく)
  7000円=H千(ハーせん)

エン(円)は言いません。ところが3のEは「エー」というと英語のAと間違えるので、

  E=「イー」

したがって

  30円=E十(イーじゅう)

これで7まではいいですね。8以上はどうするか?8はオクターブなので、

  8=「オク」

したがって、

  800円=「オクひゃく」

億百に聞こえても800円です。9は単に「ナインス」って言っていました。ケタは面倒なので言いません。だいたいその場でわかります。食事をした場合、

  「ワリカンで1人ナインスね。」

といえば、

  ナインス=900円

です。

  「このラジカセいくら?」
  「ナインス。」

といえば、

  ナインス=9000円

です。

 という事でモノホン……これもバンド用語ですね……本物のドイツ音階とはちょっと違って、

  「ツェー、デー、イー、エフ、ゲー、
   アー、ハー、オク、ナインス」

です。連続している0以外の数字が2ケタまではだいたいこれで言います。

  120円=C百D十(ツェーひゃくデーじゅう)

または、

  120円=CD(ツェーデー)

です。他の例、

  2500円=D千G百(デーせんゲーひゃく)

または

  2500円=DG(デーゲー)

やはりエン(円)は言いません。ケタもあまり言いませんね。これ以上複雑になると、

  4031円

言うほうも面倒だし、聞いているほうもわからなくなるので、普通に言っていました。

 モノホン……なんでもひっくり返してましたね。

  ボントロ=トロンボーン
  ヤノピ=ピアノ
  バータコ=たばこ
  イレト=トイレ

2音の単語はなぜか間が伸びます。

  シーメ=メシ
  バーチ=千葉
  マーヒ=暇

1音の単語は母音を分離して無理矢理2音にします。

  イーヒ=火

長いのもありましたね。

  プラテンバーソ=天ぷらそば

シーメで、

  チータ

といえば立ち食いそばです。形容詞もやってました。

  イータカ=高い

 大学によって少し違うようです。後に入部する法政大学のニューオレで、ある日突然、

  「くりびつてんぎょ!」

……?……くりびつてんぎょ?天女の仲間か?……ビックリ仰天だった。これはわかりませんでした。


1984年4月14日(土)
☆カルテーテと初めての飲み会

 入部した翌日です。



<カルテーテ>

 入部の翌日、初めてのジャズバンド演奏です。理科大ジャズ研は毎週土曜と日曜が定期的な練習日でした。この時期、1年生は入部したりやめたりと出入りが多く、まだバンドが組めませんが、練習日はあります。では1年生は何をやるかというと、練習時間の一番最後に1人ずつ、先輩たちに混じって演奏をさせられます。これを理科大ジャズ研では、

  カルテーテ

といいます。新歓コンパまでの約2ヶ月近く、1年生はカルテーテだけです。最初は全員キーがFのブルースです。ほとんど Billie's Bounce でした。そのうち違う曲を演奏する人もいます。先輩に混じっての演奏ですから緊張します。

 初めてのカルテーテの日。まず楽器を楽器置き場から練習する教室に先輩と一緒に運びます。前日に会った1年生のM本も来ています。この日1年生は全部で8人いました。その後ですが、やはり途中でやめたり新しく入ったりで、バンドが決まる新歓コンパの時点で8人、秋のコンサート前に1人入部して9人、秋の学祭が終わって1人やめて8人、その後はそのままで、最終的に私の代は全部で8人でした。理科大ジャズ研で同じ代に8人というのはかなり多いほうでした。

 カルテーテは1人ずつ、レギュラーバンド「スパイラル・ステップス」に混じって演奏します。他の先輩たちもみんな見ています。緊張しながらのカルテーテです。

 まず管の人たちから始まります。トランペットの1年生がいましたが、何だかボロボロのコートを着ています。自己紹介をします。すると先輩の1人(SZ木さんだった)が、

  「なんだよ、そのコートは?!」
  「おまえは伊武雅刀かよ!」

先輩たち、大爆笑です。彼は早くもこの日から「Eve」と名付けられます。

 彼から1人ずつ始まりました。みんなロクにソロは出来ません。ああ、他の人も一緒なんだなぁ、何かちょっと安心します。何人かいた管の人たちのカルテーテが終わりました。

 次はリズム隊です。ピアノの人がいたので、その人が先にやりました。これが私の同期の「Yago」です。この時はもちろんまだ本名で呼ばれていました。後日、ヤゴに似ているからYagoとなりましたが……Yagoのカルテーテが終わりました。

 そして私の番です。自己紹介をし、演奏をします。オルガンは無いのでフェンダーローズを弾きます(生ピアノはありませんでした)。もちろんロクにソロは出来ません。演奏が終わるとみんなが拍手、やっと終わりです。初めてのバンドでのジャズ演奏が終わりました。緊張が解けました。

 残りの人もカルテーテをやって終了です。明日の日曜もカルテーテ。また緊張するんだろうなぁ。



<初めての飲み会>

 カルテーテが終わると飲み会です。私は過去、高校の時に中学の同窓会で1回だけ酒を飲んだ事がありました。その時はウィスキーのかなり薄い水割りを7、8杯飲みましたが、別に何ともありませんでした。自分はある程度飲める体質なんだなと思っていました。ちなみに子供の頃に親が家で酒を飲む事はまずありませんでした。晩酌なんて1度も見た事がありません。この環境ですから私は大学で東京へ出るまでは実家でも酒を飲んだ事はありません。酒を飲むのはその同窓会以来です。

  「それもイカンし、
   今日の飲み会もイカン!」
  「おまえは未成年やろうが!」

いいんです。みんなそれぐらいやっています(^^)

 理科大ジャズ研御用達の居酒屋「駒安」へ連れて行かれます。ここは理科大ジャズ研で代々バイトをしている店です。私が大学2年の時に、その場所にビルが建つというので水道橋へ移転しましたが、また飯田橋に戻りました。

 店に入ると、顔も体も丸い、いかにも、という感じの店長がいます。居酒屋の店長というのは痩せているより太っているほうが旨そうなものを作ってくれそうに見えます。見るからにとても旨そうなものを作ってくれそうな店長です。これが駒安の通称「社長」です。私も短期間でしたが水道橋に移転するまでアルバイトでもお世話になりました。ちなみに社長は法政大学のオーケストラ部出身で、楽器はクラリネットで、当時、閉店後によくクラリネットを吹いていました。

 初めての飲み会が始まります。場所は2階の座敷で貸し切りです。ビールを注がれます。私はウィスキーの水割りは飲んだ事がありましたが、ビールは初めてです。部長が挨拶をします。そしてみんなで、

  「乾杯!」

……苦い。ふ~ん、ビールってのはこんな味なのか。ま、そんなにマズくはない……初めてのビールはこんな感じでした。

 駒安での飲み会が終わりました。飲み会終了です。さあ帰ろう……2次会です。

  「えっ?これからまたどっか行くの?」

飲み会というものを知りません。それに私の住んでいたアパートは大学から歩いて10分。「遠いから帰ります」というわけにいかない。少しだけ人数が減って駒安の近くの居酒屋「磯忠」へ移動します。

 2次会が始まりました。と、ここで第1噴射勃発。私が座っていたテーブルの隣のテーブルで1年生のEveがなんと、

  テーブルの上に噴射!

な、なっ、なんちゅう事を……まあ先輩から飲まされているだけですからね。大学生らしい飲み会です。店は迷惑ですが。

 2次会も終わりました。さあ帰りましょう……3次会です。

  「ええっ?まだどっか行くの?」

帰れません。飲み会ってのはこういうものなのか……。だいぶ人数が減って、道の反対側の居酒屋「庄屋」へ移動します。

 3次会です。みんな靴を脱いで座敷へ行きます。と、ここで第2噴射勃発。誰かが、

  靴の中へ噴射!

したらしい。

  「ああ!靴の中に……」
  「誰だよ!」

目撃したのは誰もいなかったのですが、どうも犯人は私が昨日から会っている1年生のM本のようでした。といっても飲まされているだけですから先輩も怒るわけにいきません。

 3次会も終わりました。もう時間も遅いです。これ以上はなさそうです。帰れます。やっと解放です。

  「今日はこいつんちに泊まり行こうぜ。」

解放されません。いきなり5人がうちへ来る事に。私のアパートは6畳1間です。やめてくれ!

 5人のうちの1人は靴噴射した1年生のM本で、私と同じく大学から歩いて10分ぐらいの所に住んでいるのは知っていました。という事は帰れる……何でウチに泊まるんか!

  残りの4人は先輩で、その内の2人、MN瀬さんとKD谷さんは私のアパートから5分もかからない所に住んでいました。なんだ、帰れるじゃん……何でウチに泊まるんか!……まあ早速1年生のアパートの場所確認と見物ですね。

 残り2人のうち、1人は帰れなくなった先輩、KN下さん。もう1人は帰れなくなった女の先輩「MYみちゃん先輩」でした。MYみちゃん先輩……付けりゃいいってもんじゃないだろ……でも本当にそう呼んでいました。

 私はジャズ研に入部した昨日まで東京には誰も知り合いはいません。もちろん誰もウチに来た事はありません。はぁ、こんな狭いボロアパートにですよ、入部した次の日にいきなり5人、それも女の人まで泊まりに来ますかね?東京の1人暮らしってのは騒がしいですね。

 泊まった人たちの中で、男の先輩3人はさっさと先に寝てしまいました。これが揃いも揃って体がデカい。残ったのはMYみちゃん先輩、1年生のM本、私の3人。寝る場所がありません。仕方なくこたつを囲んで3人で話をします。そのうちM本もうつろうつろ。わずかに空いてた場所にひん曲がって寝てしまいました。

 結局、MYみちゃん先輩と私は朝まで寝れませんでした。初めての徹夜でした。



理科大ジャズ研の飲み会の特徴として、

  つまみは食うな、酒は残すな。

というのがありました。体には良くないです。でも貧乏学生が酒を飲みたいという願望には合っています。特にこの「つまみは食うな」が激しかったです。1年生はほどんどつまみを食べる事が出来ません。沢山箸でつまもうなら、

  「なんだそれは!一気だ!」

何かというとビール一気です。コーンバターというのがありますよね。コーンは1粒づつしか食べてはいけないのです。間違って2粒つまもうなら、

  「あーっ!2粒!一気だ!」

コーン1粒づつなんてホントに「つまみ」です。

 焼き魚などの皿は全部食べ終わっても皿は片付けてもらいません。醤油を垂らして七味唐辛子をふりかけます。

  醤油の七味かけ

十分つまみです。箸で少しずつ舐めます。

 酒が進むとビールから焼酎や日本酒になります。つまみは食いたいが金はない。でも酒は飲みたい。どうすればいいか?

  「ビールをつまみ」

テーブルの上にはいわゆるつまみはなく、焼酎とビールだけ。これもやっていました。


1984年5月
☆「じみた」という名

 ある日曜の練習の帰り、ジャズ研の人たちで道を歩いてる途中で、先輩のKR田さんが突然発しました。

  「じみたぁ。」

は?誰?……どうも私らしい。他の先輩たちも不思議がっていました。

  「ジミー・スミスと久保田だから
   『じみた』でいいんだ。」

これで一同納得(せんでいいのに)。まああだ名というのはこんなものでしょうね。

 私の名付け親はKR田さんだったんですね。この名前が日本のジャズ界に広まろうとは……私でさえ思いません。今から思うとありがた~い事です。

 ※実は大学卒業後に勤めるセガでも多くの人から「ジミー」と呼ばれていました。もちろん自分から言ったわけではありません。セガの同期入社の人で理科大の人がもう1人いて、その人はスキー部だったのですが、ジャズ研で私を「じみた」ではなく「ジミー」と呼んでいたMN下さんという先輩がいて、スキー部にも入っていたので伝わってしまったようなのです。ある日セガでその同期の人に、

  「ナニィ?」
  「おまえ理科大じゃ
   『ジミー』って呼ばれてんの?」
  「なんだそりゃ?ハハハ……」

こういう変な事はすぐ広まってしまいます。もう次の日から同期連中からは「ジミー」です。


1984年5月
☆ジャズ喫茶でヴォーカリストの丸山繁雄さんを紹介される

 理科大のすぐ近くに「コーナー・ポケット」というジャズ喫茶があります。ジャズ研に入部して何日か経って先輩に連れて行かれました。コーヒー1杯400円で好きなだけレコードが聴けるのは安いです。よく行くようになりました。

<丸山さんって誰?>

 男性ヴォーカリストの丸山繁雄さんは酔狂座というバンド名で活動していました。私が東京に出る少し前、東京の学生ビッグバンドの中から演奏の上手い人たちを集めてビッグバンドを組み、そのビッグバンドとプロミュージシャン何人かをバックに歌うというコンサートがあったようで、これが丸山繁雄酔狂座オーケストラでした。この企画はその後も続きました。

 私が東京へ出る前の酔狂座オーケストラに、理科大ジャズ研先輩のテナーのKR田さんとトロンボーンのKD谷さんが参加していて、その関係で丸山さんと理科大ジャズ研は少しだけ繋がりがありました。しかし私はそんな事情は知りません。コーナー・ポケットのマスターから名前だけは聞いてました。それに私は北九州出身ですから日本のジャズミュージシャンの名前は全然知りませんでした。知っていたのは、ジョージ川口、ナベサダ、ヒノテルぐらいです。

 ある日、先輩のKR田さんと一緒にコーナー・ポケットへ行きました。少し経って男のお客さんが入ってきました。KR田さんはその人を知っていたようで挨拶をしました。その後、私に、

  「丸山さんだよ。」

ああ、この人が前に名前を聞いた丸山さんなのか……それだけです。丸山さんが日本のジャズ界で有名なのを知ったのはだいぶ後からです。



<トランペッター下神竜哉さん>

 酔狂座オーケストラには、当時、東洋大学グルービーサウンズにいたトランペットの下神竜哉さんが参加していました。よくコーナー・ポケットに来ていたので私も知り合いになりました。

 この後、何年も経ってからですが、彼はオルケスタ・デ・ラ・ルスのメンバーになります。でも私はその頃、彼がデ・ラ・ルスに参加している事は知りませんでした。いや、それよりも、カールスモーキー石井……そう、いつのまにか米米CLUBのメンバーとして活動していたのです。はぁ~、あの下神さんがねえ……

 いつだったか、コーナー・ポケットのマスターから「下神さんが店に米米CLUBの人たちを連れてくる」という話を聞きました。そしてその日、私も行きました。私はこの頃、下神さんにはもう何年も会っていませんでした。彼はすでに日本の音楽界のメジャー中のメジャーのバンドにいます。しばらくして米米CLUBの人たちが入って来ました。もちろん下神さんもいます。下神さんは私の事を覚えてくれていました。嬉しかったですね。

 その日、下神さんはしばらく普通に酒を飲んでいましたが、そのうち、何と涙を流し始めました。そして叫んでいました。

  「オレはホントはジャズが
   やりてーんだよー!」

あんなメジャーなバンドで何不自由なく大いに楽しんでいるはずなのに……コーナー・ポケットに来たのが久しぶりだったのもあったでしょうが。超メジャーなバンドにいるプロのミュージシャンってそういうものなのかなあと、色々考えさせられました。


1984年5月
☆効果音テープでいたずら

 私は1年生の時に「効果音テープ」というのを買いました。電車の走る音や鳥の鳴き声などが入っているカセットテープです。普通は理由もなくこういう物は持っていませんが、私は当時何か興味があったのでしょうね。東京へ出るまで知らなかったのもあると思います。

 ある日、先輩の何人かがうちに泊まりに来ました。効果音テープを発見します。

  「何だそれは?」
  「それ1人で聴くの?」
  「何て変な物を持ってんだよ。」

笑われます。買ってしまったんだから仕方がない。

 その先輩たちの中で、私の5つ上の先輩のMN瀬さんが言います。

  「よし、これでいたずら電話しようぜ。」

当時ジャズ研にいた、私の1つ上の女のドラムの先輩、CHヨさんにMN瀬さんが電話をします。

  「おう、CHヨ?」
  「今からいいものを聴かせるから
   コピーしろよ。」

受話器をラジカセに近づけます。

  「ボーン!」

寺の鐘の音です。CHヨさん、もちろん何だかわかりません。

  「えっ?今の何ですか?」

MN瀬さんが言います。

  「おまえドラムだろ?」
  「わかんねーのか?」
  「よく聴けよ。」

受話器をラジカセに近づけます。

  「ボーン!」

MN瀬さんが言います。

  「わかったか?」
  「コピーしたら
   『265のよいごっくん』
   に電話してこい。」

電話を切ってしまいました。私の当時の電話番号は265-4159。そんな突然「よいごっくん」と言ったって……先輩たち大爆笑です。もちろん電話は掛かってきません。

 しばらくしてMN瀬さんがまた電話します。

  「おい、CHヨ。」
  「何で電話してこねーんだよ。」

うちらは何をやっているのでしょうか……(^^)


1984年5月26日(土)
☆理科大ジャズ研の新歓コンパ

 理科大ジャズ研の新歓コンパです。目的は1年生を潰す事です。1年生を潰すためにやり、1年生はもれなく潰れます。

 新歓コンパが終わると1年生同士でバンドを組まされます。これは先輩たちが決めます。私のバンドはオルガンとドラムのデュオ、もう1つは3管バンドでした。



<新歓コンパ>

 この日は恒例の土曜の練習日でしたが、私と、同期で同じ学科のH田は、この日を含めて3日間、学科の泊まり込みの研修があって練習には参加出来ませんでした。一緒に帰って来たのですが、新歓コンパが始まるまで少し時間があったので、2人でうちへ来ました。

 悩んでいます。

  「今日どのくらい飲まされるんだろう?」
  「つまみは食えないんだよね。」
  「何か食っていったほうがいいのかな?」

うちにあった焼きそばを作って食べる事にしました。そして大学へ行きます。みんな待っています。

 場所は神楽坂を登り切った辺りの居酒屋「鳥忠」、初めての店です。座敷へ行くと、テーブルは上から見ると「凹」の形に既にセッティング済み。この中へ1年生たちは入ります。いや~な感じ。私は割と飲めるほうでしたが、今日は許容範囲以上に飲まされるはず。

 新歓コンパが始まります。部長が挨拶。乾杯。そしてまず「凹」の左側で何人かの先輩たちに挨拶。ビールをコップ一気飲み。少し前へ進んでそこの先輩たちに挨拶。一気。次は正面の先輩たちに……1年生はみんなで一周します。この時点でもうだいぶキてます。

 そしていよいよ始まります。

  芸

の時間が。1年生は何か芸をやらなければいけません。その出来によって日本酒を何杯一気するかが決まるのです。……といっても何をやっても潰されるのは同じなのですが……

 まず1年生の1人が芸をやります。そして日本酒を何杯か一気飲みします。辛そう……。次の1年生です。また一気飲みです。辛そう……。

 途中、先輩のGN司さんがお盆にとっくりを10本も乗せて運んで来ます。

  「さぁさぁ、芸が面白くないやつには
   このボーリング酒がありますからね。」

そんなに持ってくるか!あ~、嫌だなぁ……

 そして私の番です。真ん中に立たされて、まず自己紹介をします。いくつか質問をされ、それに答えます。そして最後お決まりの質問、司会の先輩が言います。

  「目指すミュージシャンは?」

  「ジミー・スミスです。」

こんなの入部した時から先輩たちは知っています。ったくもう、何回言わせるんぢゃ!……ちなみにこれ、1年生の間は何かイベントがあるたびに言わされます。まあ儀式のようなもんです。

 先輩が続けます。

  「それでは、将来のジミー・スミスに、」

  - ここからみんなで合掌 -

  「乾杯、しようじゃないか!」

ビールのコップ一気飲み、またです。

 そして芸の時間。先輩のちょっと変な行動を真似したところ、まあまあのウケ。司会の先輩が他の先輩たちに聞きます。

  「さぁ、今の芸に対して何杯でしょう?」
  「2杯」「3杯」「3杯」「4杯」……
  「それでは平均をとって3杯!」

日本酒です。ビールグラスです。そんな量、飲んだ事はありません。あ゛~、日本酒コップ3杯一気です。飲みます。拍手されます。

 私の時間はこれで終わりです。次の人の芸です。見ます。だんだん目が回ってきて……潰れます。全員潰れると新歓コンパは終了です。

 1年生たちは先輩たちに担がれ大学へ運ばれます。そして3号館1Fのモータープールに投げ出されます。みんな潰れています。暴れている人もいます。潰れている人には、白いチョークで一人一人枠で囲み、横に矢印を書いて名前を書きます。

  ○←じみた

1年生たちは潰れているので知りません。しばらくして少し落ち着いたところで、1年生たちを大学の近くに住んでいる何人かの家に分散させます。私は大学から歩いて10分の所に住んでいたので先輩3人に運ばれてうちへ。先輩たちも泊まります。



<翌日は……>

 翌日です。目が覚めると大大大二日酔い。こんなに気持ち悪いのは初めてです。しばらくうちで休憩。そして気持ち悪い中、泊まった先輩たちと一緒に大学へ行きます。するとなんと、モータープールにチョークでいっぱい人の型やら1年生の名前が……私の名前も発見……

  現場検証

と呼ばれていました。



<彼はどこへ?>

 これは後から聞いた話です。

 新歓コンパが終わり、1年生たちが大学で潰れてしばらく経ってからです。いつのまにか1年生のM本がいないではありませんか。先輩たち、

  「あれっ、M本は?」
  「あれ?いねーじゃん。」
  「ちゃんと連れてきたはずだけど。」

探しますがどこにもいません。

  「あいつ、1人で帰ったのかなあ?」

どこを探してもいません。彼の住んでいたアパートは大学から歩いて10分ぐらいです。当時彼の部屋には電話がなく、大家さんからの呼び出ししか出来なかったので、そんな遅い時間では電話も出来ません。少し心配ですが、探しても見つからないんだから仕方ない。まあ家も近いし、帰ったのかも?先輩たちは諦めました。

 翌日の夕方、彼は部室にひょっこり現れました。

  「おまえ、何やってたんだ?」

実は彼は……

 酔ったまま、なぜか自宅とは反対の飯田橋の駅のほうへ歩いて行き、途中電話ボックスへ入り、そこでダウン。彼はそこから記憶がありません。

 目が覚めました。なぜかオリの中にいます。ははぁ~、これは先輩がいたずらしてるんだろう。

  「出せ!」

オリを叩きます。

  「ドンドンドンドン!」
  「早く出せ!」

そこに現れたのは、制服を着た人……トラ箱、酔っぱらいセンターです。薄々彼も気が付きはじめました。

  「どうもホントらしい……」

お世話になったそうです。


1984年6月
☆中古パソコン「FM-7」を購入

 東京に出て来た時、高校の時に買った「日立ベーシックマスターレベル2」というパソコンを持って来ました。でもこれは当時中古で買ったので、既に相当古いもので、カラーも表示されません。そこで新たに購入する事にしました。少なくともカラー表示される機種で、中古で安い機種を探して、「FM-7」を買いました。

 買った時に本体だけではなく、色々と付属品がありました。漢字ROMもその1つでした。当時は標準では漢字が表示されず、別途漢字ROM買わなければなりませんでした。他にゲームが2つ、「マージャンゲーム」と「信長の野望」がありました。ちなみに私はそれほどゲームはやりませんし、マージャンはしません。

 理科大ジャズ研先輩のKR田さんは、当時1人暮らしで大学までは地下鉄でした。私のアパートは大学から歩いて10分ぐらい。それでたまにうちに泊まりに来ていました。ところが私がパソコンを購入すると早速マージャンを開始。タダで出来ますからね。でもマージャンは1人でしか出来ないので、そのうち「信長の野望」をやり始めました。これだと2人で考えながら出来ます。ただやり始めると朝になってしまいます。でも面白かったんですよねぇ。毎週のようにうちに泊まりに来るようになりました。何だかこれをやるために泊まりに来ていたようなものです。ホント「信長の野望」はよく一緒にやりました。


1984年6月?
☆本をしまう場所は?
「理科大ジャズ研OB O橋さん」

 理科大ジャズ研OBでベースのO橋さん、私が入部した時は既にOBでした。

 ある日、ジャズ研の飲み会にO橋さんが遊びに来ました。私は初めて会います。居酒屋「駒安」で一緒に飲みます。

 飲み会が終わりました。この日は何人かうちへ泊まりに来る事になりました。O橋さんも泊まりではなかったですが、少しだけうちへ遊びに来る事になりました。

 泊まりのみんなでうちへ来ました。早速O橋さん、部屋探検開始です。ゴソゴソ勝手に私の部屋のモノをいじっています。いじったものはそのまま。だんだん部屋が崩れていきます。他の先輩たちは笑っています。

 途中、本を取って、

  「これはここにしまうものなんだよ。」

冷凍室に入れてしまいます。だからやめてくださいって……私が取り出します。

 散々散らかした後、さっさと帰ってしまいました。残った先輩たち、

  「ああいう人だよ。」

まあ仕方ないですね、先輩ですから。

 翌日です。朝、みんな帰りました。そして私は授業を受けに大学へ行きました。

 授業も終わり、うちに帰ってきました。さて、ジュースでも飲むか。ちょっと暑いから氷でも入れるか。冷凍室を開けます。そこに置いてあったのは、なんと、

  大学の教科書

教科書が凍っています。冷たい教科書です。まったくいつの間に……(^^)


1984年6月?
☆居酒屋「駒安」で「じみた基金」が始まってしまう

 私は高校時代は真面目なほうでした。高校も地元では有名な進学校でした。別にガリ勉君ではありませんでしたが、どちらかというとマジメな部類に入るほうでした。その状態で1人で東京へ出て来ました。

 理科大ジャズ研に入ってからもそのままでした。このような私を見ていた居酒屋「駒安」の社長やバイトをしていたジャズ研の先輩たちが、

  「よし、じみたを誕生日に
   風俗に行かせよう。」

なんですと???い、いや、私はそんな事をしてもらわなくても……

  「金がかかるから
   駒安に来たお客さんに
   募金してもらおう。」

勝手に始まってしまいました。

  じみた基金

設置されました。駒安の入口のカウンターに「じみた基金」と書かれたウイスキーWHITEのデカボトルが。……まったくぅ、店のカウンターにこんなモノを置いちゃって……お客さんは「じみた基金」を見ても何の募金だかわかりません。しかしなぜだかお金は溜まっていきます……

 そしてめでたく誕生日(10月10日)にこれを頂きました。結果は……

 行ってません(^^)。だいたいデカボトルといっても1円玉や5円玉がほとんどで満杯になっても大した金にはなりません。あっ、確か伊藤博文の千円札が1枚入っていましたけどね……いや、これでも大した金額ではないです。それよりも、自分から風俗に行きたいなんて言ったのではない、強制実行されようとしたのです。

 頂いたお金は生活費の足しにしました。駒安のお客様方、どうもありがとうございました(^^)


1984年7月
☆初めてフリージャズを聴く

 理科大のすぐ近くにコーナー・ポケットというジャズ喫茶があって、私はよく行っていました。

 ある日、店に行くと客は私1人でした。しばらくしてマスターに用事が出来たようで、

  「好きなレコード聴いてなよ。」

外に出て行きました。私は1人で留守番です。

 さて、何を聴こうかな……ジョン・コルトレーンは高校の時から知っていて好きでした。店にコルトレーンのレコードは何十枚もあり、私が知らないものも沢山あります。

  OM

ジャケットを見ると何だか気持ち悪い。OM?オム?これは何だろう?まあコルトレーンだからいいに決まってる。

 レコードを掛けます。

  「ヒュードロドロ……」

薄気味悪いの笛の音が……

  「おい!留守番中に幽霊を出す気か!」

少しすると呪いの言葉が……

  「ジャズだぞ!何をやってんだ!」

しばらく呪いの言葉が続いた後、

  「……オム。オム!」
  「オーム!オーーム!!」

な、なっ、なんだ!……そしてとてもテナーとは思えない音、

  「ブヒー!ブギァー!ボヒャー!」

その後は集団でフリー演奏。

  「何だこれは!」
  「これがコルトレーンか!」
  「これがジャズか!」

初めてフリージャズを聴きました。初めて聴いた演奏で、このようになった場合、

  「もう二度と聴かん。」

になると思うのですが、私はそうではなかった。

  「いったいこれはどういう音楽なのか?」

「OM」と「アセンション」を買ってしまいました。そしてこの年の夏合宿の後、帰省した時にこの2つをカセットテープに録音して持って行きました。これで実家でじっくり聴ける……

 結果……コルトレーンはよくわかりませんでした。まあコルトレーンはフリージャズをやっている頃に「私は聖者になりたい」とか「私は神の姿を見た」とか言っているぐらいですから、少しぐらい音楽が宗教がかっても変ではないです。でも嫌いではありません。後期コルトレーンの「惑星空間」は好きですし、「クル・セ・ママ」も結構好きです。

 しかし別の成果が出ました。コルトレーン・グループのピアニスト、マッコイ・タイナーが好きになったのです。それまでマッコイはそれほど気になる存在ではありませんでしたが、コルトレーンのフリージャズを聴き込む事でマッコイが音楽で何を表現したいのかがわかるようになりました。その後、私はマッコイ・フリークになってしまいました。


1984年8月
☆理科大ジャズ研の夏合宿

 理科大ジャズ研での初めての夏合宿です。場所は新潟県の石打スキー場にある「ロッジ白道」です。

 期間は7泊8日。真ん中の中日(なかび)はバンド練習の代わりに何かイベントがあり、夜はセッション。イベントは天気が良ければ野球大会で、この年もそうでした。最終日の前日の夜は打ち上げ……普通はそうですが、1年生潰しの恐怖の「山田杯」です。



<みんなより先に行って満喫した2日間>

 理科大ジャズ研御用達の居酒屋「駒安」の社長は、実家が新潟県の佐渡島で、この合宿の2日前に夏の帰郷をする事になっていました。ジャズ研先輩のKR田さんの実家は新潟県の長岡市です。そこで社長の車にKR田さんと私の2人も乗り、みんなより一足早く合宿場へ行く事にしました。

 合宿の3日前の深夜、駒安が閉店してから社長の車に便乗して出発しました。

 この当時、東京から新潟へ車で行くには大変時間がかかりました。関越自動車道はまだ関越トンネルが無く、群馬県の前橋までしか開通していませんでした。前橋からは国道ですが、途中、三国峠を越えなければなりません。

 出発して8時間ぐらいかかって、朝やっと新潟駅に着きました。そこで社長とはお別れです。2人で電車で石打の駅へ行き、白道のマスターが車で迎えに来てくれて、舗装されていない道をガタガタ揺れながら登って行き、白道に着きました。

 いいものです、夏のスキー場のロッジは。しかも2人だけです。最終日前日には新歓コンパ以来の1年生潰しのナゾのイベント、山田杯が待っています。2日間は満喫しましょう。

 KR田さんは私の4つ上の先輩で、当時、現役では一番上の先輩、ジャズ研の親分的存在です。しかもこの時はジャズ研のレギュラーバンド「スパイラル・ステップス」のバンドリーダーで演奏も上手い。私のアパートには毎週のように泊まりに来ていて親しくさせてもらった先輩です。

 練習をするのも2人だけです。1年生は1年生同士でしかバンドを組めませんから、普段こんな大先輩と一緒に練習は出来ません。プールもあって2人だけで広々と泳げます。

 2日目の夜、ちょうど長岡の花火大会があったので2人で観に行きました。全国的にも有名だけあって規模が大きいです。十分満喫し、帰りの電車に乗り、石打の駅に着きました。もう夜遅いですが、この日はマスターが迎えに来れず、2人で合宿場まで歩く事になりました。途中、橋の横に柳が……気持ち悪いです。山のふもとまで来ました。ここからはただひたすら登るだけです。道は舗装されていなく、街灯もほとんどありません。真っ暗な山道を2人で登って行きました。駅から1時間ぐらい歩いたでしょうか。何とか合宿場に着きました。

 3日目、夏合宿の初日です。昼間は2人で練習やらプールやらで満喫。そして夕方、ジャズ研のみんなが到着しました。その中で1人、同期のφ(Fェイ)が車で酔ってしまったようで、部屋に入るなりダウン。合宿最後は1年生潰しの山田杯。車酔いとはいえ、いきなり合宿初日に同期がダウンとは、何かいやーな予感。



<私の名前は?>

 白道のマスターには娘たちがいます。一番上の子は当時まだ小さかったですが、先輩のKR田さんは何年も来ていますから、もう顔も名前もわかります。

  「KR田さん」

名前で呼んでいます。私はこの合宿が初めてですが、みんなより2日前から来ているので、名前を覚えてくれました。

  「もう1人のKR田さん」

違うってのに……結局この年ずっとこう呼ばれていました。



<オルガン合戦>

 理科大ジャズ研の合宿が他の大学と違うのは、OBが沢山参加する事です。いや~、来るわ来るわ、現役と同じ人数ぐらい来ました。もちろん初めて見る人たちばかりですが、さすがOB、みんな演奏が上手いです。

 その中に、私の5つ上の代でピアノのTK橋さんがいました。聞くと、

  エレクトーン2級
  (@_@)

エレクトーン2級なんて、この当時、全国に何人いたでしょうか?ぐらい凄いです。

 練習場にオルガンが置いてあったので驚いたのでしょう。

  「へぇ、オルガンが入ったのか。」
  「何?エレクトーン出身?」
  「オレと同じだよ。」
  「よし、オルガン合戦だ!」

嫌です!2級に6級が勝てるわけがないです。絶対嫌です。が、先輩は先輩、文句は言えません。まあ合戦といってもそれぞれが別々に演奏するだけですが。

 演奏が終わってTK橋さん曰く、

  「う~ん、負けた!」

そんなわけないです。こっちはまだジャズを始めて間もないんですから。でもその後も会うたびに、

  「あの夏合宿でオルガン合戦をやって
   負けたんだ。」

と言っていました。そんな事ないですって(^^)

 ちなみにTK橋さんにはその後、大変お世話になりました。私がジャズ研3年目の時、TK橋さんが持っていたエレクトーンを譲ってくれたのです。機種は相当古かったですが、販売当時100万円ぐらいしたはずです。これは普通個人で購入するものではなく、ヤマハのスタジオの一番良い部屋に置いてあって、発表会などで使うものです。さすが2級、持っている物も違いました。譲り受けたエレクトーンは、その後2回目の引越しまでの約13年間お世話になりました。



<山田杯>

 最終日前日の夜、打ち上げ……ではなく、いよいよ新歓コンパ以来の1年生潰しのイベント「山田杯」です。……これはいったい何なんでしょうか?「新歓コンパ」や「打ち上げ」の名前であればわかります。山田杯?名前からして変です。先輩に聞くと、随分上のOBの山田さんという人が何たらかんたら……スキャットをやらされ、芸もやらされ、優勝者を決めるんだとか。こんなのに優勝してどうなるんでしょう? 日本酒一気の量が増えるんでしょうか?いや、優勝なんか関係なく、どうせ日本酒も一気させられます。嫌だなあ……

 まず1年生は練習場の横の部屋に待機させられます。その後、入場行進して練習場へ……大げさ過ぎるやろ。司会が開会宣言をします。そしてみんなで乾杯。

 早速、芸の時間が始まりました。私は同期2人でやる事にしていました。当時ジャズ研にいた(理大祭が終わってやめた)1年生のトロンボーンのK林が、

  「なぁ、これ面白いんじゃねぇーか?」

マッサージです。私が彼のマッサージをする、彼が気持ちよさそうに喘ぐ、これだけです。こんなの、面白いんでしょうか?見ようによっては男同士がヤッてるようにも見える。まあいいか。

 真ん中で2人でマッサージをやります。やはりあまりウケません。「何だそりゃ?」とか聞こえます。まあ別に芸はウケたってウケなくたって、どうせ飲まされるのは同じです。少しだけ笑いをとって終わりです。

 ところが後日、これが話題に。先輩がこれを写真に撮っていて、夏合宿写真集にありました。

  GキBリの後尾

捨てちゃいました。

 結果、私はこの芸に対して日本酒をビールグラスで3杯でした。これは新歓コンパで一気したのと同じ量……という事は、あの気持ち悪さがまた……最悪です。最初からああなるとわかっていて飲むんだから最最悪悪です。ただこの時は先輩に「まあ一気しなくてもいいや。少し時間をかけてもいいや。」と。これで少しは大丈夫か?少しだけ時間をかけて飲みました。これでもし潰れなければまた飲まされます。

 私は洗面器をかぶり、潰れたふりをしました。どうせそのうち目が回ってくるのさ……回りません。なぜだか全然酔いません。仕方ないので洗面器をかぶったまま潰れたふりをし続けます。でもダメです。酔いません。いや、酔いが回るどころか、完全に抜けてしまいました。

 山田杯は進んでいます。全員の芸が終わり、先輩たちが優勝者を決めています。そして優勝者の発表です。

  「優勝は……」
  「φ(Fェイ)!」

φ(Fェイ)の優勝です。おめでとう……めでたくない。

  「優勝旗の授与です!」

……な、なんだ?……掃除機の枝に布団が掛かっています。φ(Fェイ)が掃除機布団を授与されます。そして司会が閉会宣言。やっと訳のわからん「山田杯」が終わりました。

 その後少ししてφ(Fェイ)を見ると、日本酒を一気しています。いや、一気というより日本酒を流し込んでいます。もの凄い勢いで流し込んでいます。おいおい、そんなに注入して大丈夫かよ?

 私ですが、なぜか全く酔っていません。もう山田杯は終わっているので、既に練習場の建物から宿のほうへ戻っている人もいます。私も仕方ないので、少し酔っているふりをしながら練習場の外に出ます。そして1人で宿へ戻ります。

 宿に着くと10人以上飲んでいる人がいます。その中になぜか潰されるはずの同期のEveもいます。彼も酔わなかったんでしょうね。

 先輩が私を見るなり文句を言います。

  「おまえも大丈夫だったのかよ!」
  「しょうがねぇなぁ……」
  「まあいいや。一緒に飲むか。」

さすがに先輩たちもこれから一気というのは無さそうです。一緒に飲み始めます。

 そこに練習場から先輩のTN川さんが戻ってきました。

  「ナ ・ ニ ・ を ・ や ・ っ ・ て ・
    る ・ ん ・ だ ・ !」

いきなり、Eveの肩を「パシッ!」っと叩きます。

  「お ・ ま ・ え ・ も ・ だ ・ !」

私の肩も「パシッ!」と叩きます。……先輩たちは過去に山田杯で散々な目に遭ったのでしょう。相当悔しかったんでしょうね。でももう終わっています。この後は普通に飲みました。結局、私は奇跡的に潰れませんでした。その代わり……新歓コンパとこの山田杯で日本酒が嫌いになってしまいました……

 翌日、最終日、帰る日です。朝食時間、食堂に山田杯優勝者のφ(Fェイ)はいません。爆睡中です。私は前日、もの凄い勢いで日本酒を流し込んでいる彼の姿を見ました。彼がいったいどのくらいの量を飲んだのか予想がつきません。

 朝食も終わり、片付けの時間です。まだ爆睡しています。なぜか腕が、肘から上を向いてます。

  「何て寝方だ?!」
  「その腕は何だ?」

みんなで笑います。

  「ちゃんと寝なさい。」

腕を下げさせます。しかしなぜだかまた上を向きます。何回やっても上を向きます。

  「何だこれは?!」

練習のし過ぎで腕を伸ばすのが嫌だったのでしょうか?腕を上に向けたまま爆睡していました。


1984年10月?
☆生まれて初めてのバイト
「居酒屋『駒安』での『人間リフト』」

 この当時、飯田橋にあった理科大ジャズ研御用達の居酒屋「駒安」ですが、客席は1階と2階があり、厨房の横には酒やつまみを運ぶためのリフトがありました。このリフトがある日、動かなくなったようです。修理はすぐには出来ません。

 ある時、駒安でバイトをしていたジャズ研先輩のKD谷さんから突然言われました。

  「じみたぁ、人間リフトやんない?」

私は事情を知りません。人間リフト?何だそりゃ?

  「駒安のリフトが壊れたから
   階段で運んでほしいんだ。」

えー?これは疲れそうです。どうしたもんか?私も困りました。大学の近くに住んでいるというのは良い面もあり、悪い面もありますね。何かというとすぐお呼び出しが掛かります。他にやりたい人は……そんないかにも疲れそうな事を進んでやる人はいません。

  「じみたぁ、頼むよぉ~。」
  「やってくれよぉ~。」

う~ん、そんなに駒安が困っているなら……

  「わかりました。」

駒安でどのぐらいの量がリフトで上下しているのかは社長でもわかりません。またリフトにはかなりの量を乗せられますが、人が運ぶのはある程度の量までなので、何往復すればいいのかもわかりません。

 私はこの時までバイトというものをやった事がありませんでした。人生で初めてバイトをしに駒安へ行きます。

  「おお、来たか。」

いよいよ始まります。居酒屋での変なバイト「人間リフト」が。

 社長から簡単に注意点を言われます。

  「おまえは店員のバイトじゃないから
   その辺に立ってればいいや。」
  「客にはちゃんと挨拶しろよ。」

何だか中途半端な変な場所に立たされます。

 そして開店。客が来始めます。空いている時間の客は1階だけですから私の価値はありません。変な場所に突っ立っている「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」しかしゃべらないロボットです。

 1階が満員近くになり、そしてついに2階に客が入りました。注文が来ます。まずビール。私はロボットから人間へ……リフト役が登場です。ビール瓶を何本かお盆に乗せて階段を上り、2階で降ろし、1階へ下り、そして元の変な定位置に立ちます。

  「何だ、簡単じゃん。」

ただひたすらこれを閉店までやればいいのです。楽チン楽チン。

 1階は満席。2階にどんどん客を入れます。往復回数が少しずつ増えます。

 何時間経ったでしょうか。だいぶ疲れました。

  「まだ半分かよ~」

この仕事、何が疲れるって……やってみればわかりますが、まず階段がかなり狭く、急です。重さもかなりあります。大ジョッキ数杯などは普通に運んでも十分重いですが、これを階段で2階までです。乗せるのはお盆ですから、階段の途中でつまづいたら大変です。気を付けて運ばなければなりませんが、この「気を付けて」が疲れを倍増させるのです。

 閉店間際です。もう足が棒です。

  「あ~、まだかよ~」

 やっと閉店です。しかし2階にある残った洗い物はぜ~んぶ私の役目。

  「あ~、まだあんのかよ~」

1日100往復はしていました。思った以上の以上の以上の以上の以上のバイトでした。リフトの修理は1週間ぐらいかかるとの事。あと4日間もやんのかよ~……

 私の生まれて初めてのアルバイト、

  人間リフト

が疲れて疲れて疲れて疲れて疲れて終了しました。


1984年10月?
☆実現しなかった丸山繁雄 with じみたライブ
※実現しなくてよかった。なぜ?

 理科大のすぐ近くにあるジャズ喫茶コーナー・ポケットによく行っていた私は、ある時、店のマスターから言われます。

  「ヴォーカルの丸山さんと2人で
   うちの店で演奏してみろよ。」

ええっ!私はまだジャズを始めたばかりです。しかもジャズ研のバンドはインストものばかりだし、この当時は歌自体が好きではなかったのもあり、ジャズヴォーカルの曲なんて1曲も知らないです。何でそういう事になるのか?

 私は絶対否定をしますが、マスターは私の言う事を聞いてくれません。

 そして丸山さんと一緒に演奏する日が決まってしまいました。ただその日は駒安でバイト「人間リフト」が予定されている日でもありました。バイトは当日の開店前に店に行ってみないとあるのかどうかがわかりませんでした。

 私は昼過ぎに大学から鍵盤1段のオルガンと足ベースを店に運んでセッティングします。しばらくして丸山さんがギターを持って店に来ました。まず先にバイトが入る可能性が高い事を伝えて、一応リハーサル開始。

 やっぱり全然知らない曲ばかりです。何をやったかは覚えていませんが、1年生ごときと一緒に演奏するんですから超メジャーなスタンダードばかり選んでくれたと思います。でも私は全然知らなかった。それに初見で演奏なんて1年生ではロクに出来ません。さらに歌の伴奏は丸山さんのギターと私のオルガンのたった2人だけ……やりたくない。どうしてもやりたくない。

 そして夕方、バイトがあるのかどうかを聞きに駒安へ……頼む、バイトがあってほしい……

  「今日やってくれ。」

やった!コーナー・ポケットに戻り、バイトがある事を丸山さんに伝えると、

  「いや~、残念だなあ~。」

  「そっ、そうですね(汗)」

違います。良かったのです、私は。

 こうしてライブは実現しませんでした。丸山さんとしては、まあ1年生だし、失敗してもいいや、ちょっとしたお遊びライブでもやってみようか、と軽い気持ちだったでしょうね。

 この事はよく覚えていて、私は初心者が緊張して演奏したり歌ったりする気持ちはとても良くわかります。後から思うと、こんなヘタクソな初心者と一緒に演奏しようとしてくれたのはとてもありがたい事です。


1984年10月?
☆ライブ鑑賞
<新宿 ピットイン>
「丸山繁雄 酔狂座オーケストラ」
※初めて観たピアニスト板橋文夫

 ヴォーカルの丸山さんが新宿のピットインでライブをやるというので理科大ジャズ研の先輩たちと一緒に観に行きました。これが私の初めてのライブ鑑賞で、ライブハウス自体も初めてでした。学生ビッグバンドにプロの人たちが混じってのライブでした。プロのメンバーは確か、
丸山繁雄(vo)、大友義雄(as)、井上淑彦(ts)、板橋文夫(p)、望月英明(b)、小山彰太(ds)
だったと思います。

 会場時間よりだいぶ前に行き、一番前の席を4人で陣取りました。目の前はピアノで、2mぐらい先にピアノのイスがあります。私はオルガンでしたが、目の前に鍵盤があるというのはラッキーです。

 開演です。演奏者たちがステージへ上がります。ピアノの板橋文夫さん……周りが「板さん」と呼んでいたので板さんと言わせていただきますが……板さんも私の目の前にあるピアノのイスに座りました。私は初めて観るプロのジャズピアニストです。……まあ、あまり多くは語りませんが……知っている人も多いと思いますが……こ、こっ、こんな人がピアノちゃんと弾けんのか?……

 演奏が始まりました。板さんは……ソロが盛り上がってくると立ち上がって揺れて……あーっ!そんな事をしたらピアノが壊れるぞ……私の目の前、2m先の出来事です。恐かった。とても恐かった……とにかく私はこの日、ショックで言葉は全く出ませんでした。この人のライブは恐い。もう二度と行きたくない……

 しかしこの1年後、私は板さんにハマッてしまいますが……(^^)


1984年?月
☆俺<φ(フェイ)>の練習時間は?

 理科大ジャズ研で私と同期にベースのφ(Fェイ)がいます。「φ」、これはギリシャ文字で「ファイ」です。彼はFェイというあだ名を付けられたのですが(それも普通ではないが)、似てるからいいやと自分で書き方を「φ」にした……φ(Fェイ)は1年生の時、ジャズ研のベーシストが少なかったため、先輩のバンドにも参加していました。

 ジャズ研の部誌には、次の練習日の予定時間が書いてあります。ある時、φ(Fェイ)の参加しているバンドの誰かに用事があって、次回の練習はしない事になりました。部誌に書いてあります。

 1年生バンド
 9:00~10:00

 △△バンド
 10:00~12:00

    :

φ(Fェイ)の参加しているバンドは書いてありません。これを見たφ(Fェイ)

  「なんでオレの時間がないんだよ?」

勝手に書き足します。

 1年生バンド
 9:00~10:00
       < 俺(φ)
 △△バンド
 10:00~12:00

    :

どこに書いとるんぢゃ?しかも「俺」ってバンドは何や?


1984年11月3日(土)
☆理科大ジャズ研のコンサート
「じみた」
じみた(org → electone) まなぶ(ds)

 理科大ジャズ研での初めてのコンサートです。会場は渋谷のエピキュラスでした。

 私はオルガンですけど、こういう会場に普通オルガンは置いていません。エレクトーンがあったのでそれを借りました。

 バンド名とメンバーは、

「じみた」
じみた(org → electone) まなぶ(ds)

はぁ~、デュオです。もう1つの1年生バンドは7人です。豪華な3管編成でギターまでいる。1人くらいよこしてくれてもいいじゃんか……

演奏曲目は、

1. Keep On Comin' (Jimmy Smith)
2. Billie's Bounce (Charlie Parker)

何とブルース2発。後から考えるとドエラい選曲です。

 初めての一般客の前でのジャズ演奏でしたから、とても緊張しましたねぇ。


1984年11月22日(木)~25(日)
☆理科大の学祭「あけみ」
「じみた」
じみた(org) まなぶ(ds)

 理科大ジャズ研での初めての学祭、理大祭です。開催日は毎年11月23日付近の4日間で、ジャズ喫茶「あけみ」という店を開いています。私のバンドはコンサートと同じく、

「じみた」
じみた(org) まなぶ(ds)

でした。



<1年生はつらい(クレマトップ事件)>

 初日の前日は準備日です。まず部屋作りです。教室の窓に暗幕を張ります。これで昼でも真っ暗になります。壁や天井にも暗幕を張ります。これで音の跳ね返りが無くなります。天井から電球を吊るすと、教室がジャズ喫茶に様変わりです。他にも仕事は山ほどあります。

 学祭期間中は1サークルにつき5人まで教室に泊まる事が出来ます。私は1人暮らしだったので、準備日は先輩に混じって1年生1人私が泊まる事になりました。23時の閉館時間を過ぎると出入りが出来なくなります。

 さて、準備日の閉館時間です。この時間からも大変です。閉館までは部屋作りのような大仕事で目一杯で、他の事はこれからやらないといけません。その中で一番大変だったのは洗い物です。膨大な数がありますが、何せ泊まりの1年生は私だけ。これが命令です。洗い場は同じ階に無かったので、エレベーターを使って運びます。いったい何回往復すればいいのか……やりました、1人で全部。

 翌日、理大祭の初日です。すべて完成、と言いたいところですが、飲食物や消耗品は買わなければなりません。朝、早速買い出し命令です。先輩のM対さんが買い出しリストを書いています。その中にコーヒー用ミルクのクレマトップがありました。ただ私は当時クレマトップを知りませんでした。

 リストを受け取り、それを見ると、

  「○○、△△、クレマトップ」

クレマトップ?聞いた事がない。

  「クレマトップって何ですか?」

  「クリープみたいなやつ。」

コーヒーに入れる粉末のクリープです。が、これを私は、

  「クリップみたいなやつ。」

に聞き間違えてしまいます。

  「えっ?何ですか?」

  「クリープみたいなやつ。」
  「店に行けばわかる。」

一度聞き間違えるとクリップとインプットされてしまいます。

  「クリップみたいなやつで
   店に行けばわかる……」

  「……文房具屋か。」

買い出しへ行きます。まず他の物を買ってから文房具屋へ行きます。クリップを置いてあるところを探します……ありません、クレマトップって書いてるやつは。

 教室に戻り、M対さんに言います。

  「クレマトップがありませんでした。」

  「えっ?あるはずだよ。」

私はそんな名前のモノを知らないので、もう一度聞きます。

  「クレマトップって何ですか?」

  「クリープみたいなやつだよ。」
  「店に行けばわかるって。」

また同じ答えが……私にインプットされてるのはクリップ。

 仕方ありません。また同じ文房具屋へ行きます。一応もう一度クリップを置いてあるところを見ますが、やっぱりありません。これ以上探しても無駄なので、店の人に聞きます。

  「すいません。」
  「クレマトップってありますか?」

  「クレマトップ?」

  「クリップのような物なんですけど。」

  「クレマトップですか?」
  「そういうのは聞いた事ないですねぇ。」

店のおばちゃんも知らなかった……ない、ないです。店にありません。

 教室に戻り、M対さんに言います。

  「やっぱりありませんでした。」

  「あ、そう。」

 少し経って別の1年生に買い出し命令がありました。

 そしていくつかの物を買って来ました。机の上に買って来た物を広げると……なんとその中に「クレマトップ」って書いてある瓶があるではないですか。

  「ナニィ?これがクレマトップ?」
  「どこがクリップぢゃい!」

まあ、私も私ですが……2回も聞いているんだから、コーヒーに入れるだとかミルクだとか、もう一言説明出来なかったんでしょうか。全くもって散々です。

 2度もスカをし、ヘタってたところ、今度は別の先輩に、

  「氷を買ってきて。」

また買い出しです。氷屋へ行き、ブロックの氷を買います。ああ、氷は重たい。重たいのを運んで教室へ戻ります。

 途中、道で別の先輩、AS田さんに遭遇。AS田さんは私が何をしているのかは知りません。

  「おい、フラフラしてないで
   ちゃんと仕事しろよ。」

……あのなぁ、あたしゃ1年生1人で泊まって全部洗い物をし、朝っぱらから2回もスカって、今、氷を買って来たというのに、フラフラしてるだとぉ……

  「仕事してんぢゃ!」
  「この氷が見えんのか!ボケ!」

の言葉はもはや出ませんでした。

  「あ……はい。」

1年生というのはつらいもんです。



<じみたは真っ黒>

 この当時、私は高校の時に履いていた黒いズボンを持っていました。それとは別に黒い服も持っていました。

 私の服の洗濯ローテーションで、この時ちょうど上も下も黒になりました。教室の壁は暗幕が張ってあるので黒です。

 理大祭の夜は、実行委員会の人が、泊まって良い人数5人以外に誰か泊まっていないかを何回か見回りに来ます。でも理大祭期間の夜中は楽しいもので、5人だけではないので、それ以上はどこかに隠れないといけません。

  「壁を向いて立ってみろよ。」
  「ほら、おまえ見えないよ。」
  「保護色じゃんか。」
  「おまえは隠れんでいいぞ。」
  「実行委員会が来たらそうしてろ。」

ホントにこれで隠れました。しばらくは保護色で遊ばれてました。



<じみたの父事件>

 この理大祭の期間、私の父が上京し、私のアパートに泊まっていて、ジャズ研の人たちにはその事を伝えていました。

 理大祭のある日、打ち上げで大学の近くに飲みに行き、その後、大学の近くに住んでいた先輩のアパートに別の先輩が泊まる事になり、私も付いて行きました。このアパートは私が住んでいたアパートからも近く、すぐ帰れます。しかし飲み会になって盛り上がってしまい、結局私も泊まってしまいました。したがってこの日、私のアパートにいるのは私の父1人だけで、私はいません。

 ジャズ研で私の3つ上にSZ木さんがいます。この先輩、いたずら大好き人間です。私の父がうちに泊まる事を聞いたSZ木さん、早速いたずらを考えます。

  「オレがじみたのおやじに成りすまして、
   じみたに電話してやろう。」

まあちょっとしたいたずらです。

 この日の夜です。

  「もうじみたは家に帰ってるだろう。」

いたずら開始です。うちに電話します。

SZ木:「もしもし。」
父親:「はい。」
SZ木:「おう、浩か。」
父親:「は?」
SZ木:「父さんはなぁ、
    今までおまえに苦労をかけた。」
父親:「?」
SZ木:「これからはおまえを
    大事にしようと思う。」
父親:「?」
SZ木:「それから父さんはなぁ……」
父親:「あのぅ、私は浩の父ですが。」
SZ木:「!!…し、しっ、失礼しました!」

 次の日、私は泊まった先輩のアパートから直接理科大へ行きました。しばらくしてSZ木さんが来ましたが、私を見るなり、

  「オメー、なんで家にいねぇーんだよ!」

私は何も知りません。

  「ええっ?どうしたんですか?」

事情を聞いて納得。まだブツブツ文句を言ってます。

  「ったくー!」
  「オメーが家にいねぇーから、
   恥かいちゃったじゃねーか!」

知ったこっちゃありません。いたずらもほどほどにしましょう(^^)



<マイルス小林氏はどんな人だったか?>

 池袋のライブハウス「SOMETHIN' Jazz Club」(元 Miles' Cafe)のマスター、マイルス小林さんは理科大ジャズ研のOBです。マイルス氏は誰にでも、

  「私の事は
   『マイルス』
   と呼んでください。」
  「『さん』はいりません。」

と言っていますが、私はこの年から会っていますので小林さんと言わさせていただきますが……というか、自分の名前まで「マイルス」にするとは思わなかった(^^)

 理大祭では4日間のうちの1日、「フェス」という日を設けます。期間中は毎日沢山のOBがセッションをしに来ますが、フェスはそれとは別に、多くのOBに集まってもらってセッションをしてもらうためにわざわざ1日設けるのです。夕方から始まります。

 OBたちは理大祭に来ると教室内の適当なところに座り酒を飲むなり話をするなり楽しみます。

 そしてフェスが始まります。司会のジャズ研の部長が挨拶をし、まず1年生の現役の人たちがブルースを演奏します。司会が1人ずつメンバーを紹介します。そしてブルース演奏を続けたまま現役のメンバーが1人ずつ入れ替わり、そのたびに司会が紹介します。だんだん上の学年に入れ替わり、そして現役の一番上の学年になります。

 ブルース演奏は続けたまま、次は若いOBの人に少しずつメンバーが入れ替わります。同じく部長が紹介します。だんだん上のOBに入れ替わると司会の現役の部長が知らないOBもいるので、司会がその付近のOBに交代します。この当時はドラムのTM村さんでした、そしてまただんだん上のOBに入れ替わり、今度はその司会も知らないOBがいるので交代。これを繰り返します。この当時の最後の司会はビブラフォンのS野さんでした。そして一番上のOBまで入れ替わります。

 フェスはだいだいこんな感じです。

 小林さんが理大祭に現れました。が……座る事なく、現役がいるテーブルにビール瓶を持って1人1人に挨拶をしていまず。なぜそんな事をしているんだろう?また一気?

 次は私の番です。ビール瓶を持っています。

  「トランペットの小林です。」
  「よろしく。」

ビールを注がれました。別に一気ではなさそうです。

  「名前は?」

  「じみたと言います。」
  「ジミー・スミスが好きなもんで。」

  「楽器は?」

  「オルガンです。」

  「へぇ、オルガンかぁ。」
  「頑張ってね。」

次の人のところへ行ってしまいました。なぜこのOBだけこんな事を……

 フェスが始まってブルースの演奏が一番上のOBになります。小林さんがトランペットを持ってステージへ行きます。楽器にマイクを取り付けてエフェクターをセッティングしています。他の人はブルースを演奏しています。

  「ヒュ~ン……」
  「ホワン……」

もの凄いエフェクターがかかっています。他の人はブルースを演奏していますが、1人だけサウンドチェックをしています。

 サウンドチェックが終わったようです。やっと小林さんのブルースの演奏が聴けます。

  「ヒュ~ン……」
  「ホワン……」

さっきと同じ……そして周りのブルース演奏が崩れていき、だんだんフリーになります。何をやっているのかよくわかりません。今度はフリーだったのが8ビートになってしまいました。確かチャーリー・パーカーの4ビートのブルースだったはず……

 毎年こんな感じでしたかね。今のマイルス小林氏しか知らない人は信じられないかもしれませんが(^^)

 これは聞いた話です。

 小林さんが現役の頃、あるバンドコンテストに出て、そのバンドは電化マイルスのコピーバンドだったようなのですが、もう1つとても良いバンドもあって、審査員たちはどちらを優勝させたらいいかわからなくなったそうです。当時、電化マイルスのコピーをしているバンドはプロも含めて無かったようで。大橋巨泉氏に「日本でこんな演奏をやっているバンドは初めてだ。素晴らしい。」とお誉めの言葉を頂いたようです。

 今のマイルス氏は、私からすれば「あの小林さんも演奏が変わったなあ」という感じですけどね(^^)


1984年12月8日(土)
☆理科大ジャズ研のバンド会議

 理科大ジャズ研のバンド会議です。理大祭でそれまで1年間のバンドは終了で、次の1年間のバンドを決めるためにバンド会議を行ないます。ところがこれに1年生は参加出来なく、先輩たちが決めたバンドに従うしかないのです。どんなバンドになるのか終わってみないとわかりません。



<ピアノに転向させられる>

 バンド会議が終わる時間、1年生はやっと会議をやっていた教室に入れます。もうバンドは決まっています。

 ドキドキしながら入って、黒板を見ます。

○バンド △バンド □バンド
…… …… ……
ピアノ …… じみた ……
ベース …… …… ……
ドラム …… …… ……

何とピアノ……オルガンじゃない……子供の頃、あれほどピアノが嫌でエレクトーンに変えたのに……ピアノです。まさかピアノになるとは……会議には参加出来ないのですからメンバーはどのようになっても仕方ありません。しかし楽器を変えられるなんて……

 この当時もやはりピアノの鍵盤のタッチの重さがとても嫌でした。20年間柔らかい鍵盤で慣れてしまっている指ではピアノの音がしっかり出ません。

 何というバンド会議でしょう?でも仕方ありません。決められたものは従うしかありません。

 このバンド会議で私は無理矢理ピアノをやらされてしまう事になりました。ここで「ジャズピアニストじみた」が誕生するわけです、何がきっかけで人生が変わるか、ホントにわかりませんねぇ。。。



<1年生が先輩をクビ>

 私のピアノ転向は私個人の出来事です。それとは別に理科大ジャズ研としてこのバンド会議で、ある出来事が起こりました。話は会議よりだいぶ前からになります。

 この年の夏合宿のある夜、1年生が何人かいる中へ、別の1年生の人が入って来て文句を言い出しました。

  「何なんだよ!あの人は!」

どうもある先輩に迷惑をかけられたようです。また別の日、別の1年生の人も同じような文句を言っていました。

 この先輩が、夏合宿中に焼酎をストレートで飲みながら突然言った言葉があります。

  「やっぱり焼酎は生(き)に限るねぇ。」

焼酎はきに限る?……き?

  「きだよ、き。なまだよ。」
  「わかってねーな。」

1年生たちは、

  「何なんだよ!『き』ってのは!」

爆発寸前になっています。

 いつの頃からでしょうか?1年生たちの間ではその先輩の事を、

  ホラっちょ

と言うようになりました。「ホラっちょ」以外の先輩たちも次第にこの事を知るようになりました。そして、

  「何なんだよ!ホラっちょは!」

状態は加速していきました。

 秋のコンサート近くです。私のバンドとは別の、もう1つの1年生バンドでは、オリジナル曲、

  「ホラっちょブルース」

が出来上がりました。練習時間、この曲を聴いた先輩たちは笑っていました。

 コンサートです。先輩たちは1年生バンドが何を演奏するかは知りません。果たしてこの「ホラっちょブルース」をやるのか?1年生バンドは時間が短く、2曲ぐらいしか演奏出来ません。1曲目……違います。練習していた曲です。2曲目……違います。これも練習していた曲です。もうこのバンドは終わりの時間です。と、ここで、

  「ホラっちょブルース」

が!最後、メンバー紹介の時にやってしまったのです。「ホラっちょ」以外の先輩たちは大爆笑です。

 バンド会議です。「ホラっちょ」は当時3年生でしたから次の年もバンドはあります。しかし時間になってもなぜか現れませんでした。これは全く想定外です。ちゃんとした理由があって会議に参加しない人もいますから、来ない人がいてもおかしくはないです。会議は進みますが、なぜかいつまで経っても来ません。

 会議終了後だったか直前だったか、教室に「ホラっちょ」が現れたようです。黒板に彼の名前は……ありませんでした。

 会議終了後、1年生たちを教室に呼びに来た先輩が言います。

  「ホラっちょビーク。」

1年生たちの間で努力(?)してきた甲斐がありました。



<すさまじい理大祭「あけみ」の打ち上げ>

 バンド会議は、理科大ジャズ研が年1回だけマジになる時です。理大祭が終わってバンド会議までの2週間、次のバンドを決めるための裏工作が色々な所で行われ、そのための秘密の飲み会も開かれます。何せバンド会議の日の夕方に向こう1年のバンドが決まってしまいますからね。ところが1年生は参加出来ないのです。不満者が続出するのは当然です。バンド会議後、理大祭の打ち上げがあるのですが、これがすさまじい。

 この日もバンド終了後、理大祭の打ち上げです。みんなで居酒屋「駒安」へ行きます。

 開始2時間後、早くも不満第一号が同期から発生。1年生のH田が飲み過ぎでダウン。店の外に連れ出し、そこでダウン。噴射。ああ、彼は終わってしまった。。。

 場所を変えて二次会。ここで不満第二号がまたまた同期から発生。1年生のφ(Fェイ)が、

  「クッソー!」
  「クッッソー!!」

と言いながら涙を流し始めた。もう彼は終わっています。この後、この横にいた先輩のKN下さん(4年生)とAS田さん(3年生)の2人が口論になりました。そして最後、

AS田:「だってかわいそうじゃん!」
KN下:「いや、そういうもんなんだよ。」

AS田さんの目に涙がちらっと……直後、トイレへ。人前で涙を見せたくなかったのでしょう。その後、KN下さんは私たちに、

  「優しいんだよ彼は。」
  「とっても優しいんだよ。」

もちろん「彼」とはAS田さんの事です。こんな飲み会は経験したことがありません、私はただただ見ているしかありませんでした。


1985年3月
☆留年決定

 私は大学時代、勉強が大好きでした。大学は勉強をする所ですから、ジャズ研なんてあまり顔を出していません。無類の勉強好きですから、大学を4年で卒業するのはもったいない。学部の事務室に要望書を提出しました。

  「より一層の勉学のため、
   1年生を再度やらせていただきたく
   要望致します。」

この要望書は正式に受理されました。そしてめでたく私は1年生をもう1度……

 いい加減にせい!!(^^;)

 私は応用物理学科で、必須科目に実験があり、単位を落とすと2年生にはなれません。実験は年間で3回休むとそれだけで単位が取れなくなります。しかし私は3回休んでしまいました。

 大学の成績はABCDの4段階で評価され、Aが一番良く、ABCで単位取得、Dだと単位は取れません。

 試験は一応全部受けました。後日、成績表を受け取ります。見ると必須科目の外国語が落ちています。Dが付いている。実験を見ると、

  C

あれ?3回休むと落ちるという話は何だったの?という事は外国語で落ちたのか。やっぱり昔からの、

  こくごがにがて

を引きずっています。外国語はこくご。やっぱり、

  だめちん

留年決定です。

 留年といっても、次年度必ず取らなければならない科目は外国語だけです。他の理系の科目は全部取ってしまいました。落ちるはずだった長時間の実験もない。他に受けられる科目は必須ではないものが少しあるぐらい。大学2年目は思いっ切り暇になってしまいました。

 私の同期8人中、1年で留年が決定したのは私だけ。クソッ!……しかし……最終的には8人中で大学5年目を経験したのは私を含めて6人でした。私以外の5人は4年生を2回やる事になるのですね。へへへ。それに私より1年後に卒業した同期もいる……まあ大学に何年いようがあまり関係ないですけどね。就職は少し難しくなるかもしれませんが。

 しかし理科大ジャズ研は留年率が高い。私の代で計算をしてみますと……同期の1人は早稲田大なので除外します……7人中5人留年という事は、

  留年率7割

ジャズはそれほどハマッてしまうものなのです(^^)


1985年3月
☆理科大ジャズ研の春合宿

 理科大ジャズ研での初めての春合宿です。場所は山梨県にある五大湖の1つ、西湖の湖畔にある民宿「東村」です。

 東村は宿とは別に歩いて数分の所に、かやぶき屋根の2F建ての一軒家があり、練習場として使えます。古い感じがとても良く、外に出ると富士山が見えます。周りは何も無く24時間音出しOKで、音楽系サークルはよく利用していたようです。

 春合宿の時期ともなると1年生もようやく人権を得るようになります。それまでは、下っぱ、パシリ、奴隷、ゴミです。バンドも1年生バンドではなくバンド会議で決まったバンドです。やっと先輩に混じったバンドが出来ます。

 期間は7泊8日。真ん中の中日(なかび)は練習の代わりに何かイベントがあり、夜はセッション。最終日の前日の夜は打ち上げ&セッションです。

 初日、東村に着いて夕食後、練習場で早速セッションです。途中で雪が降り出しました。私は何か用事があって一旦宿に歩いて戻り、また練習場へ向かって歩いて行きました。外はもうだいぶ雪が積もっています。途中で同期のMなぶの車を発見。何人かが車の周りを囲んでいます。その場所へ行くと……雪でタイヤが空回りし車が動かなくなっていました。みんなで一生懸命押して、やっと車は走り出しました。これは一晩で相当積もるだろうなぁ。

 次の日、見事に積もっていました。

 ある日、部屋で1人で横になっていると、先輩のTN川さんが入ってきました。私の頭より上のほうに顔が見えました。

  「おぅ、じみたか。」

そうです、私です。TN川さん、私の顔をよく見ます。

  「おっ?反対だったのか。」

顔が逆に見えていましたからね。

  「おまえの顔はリバーシブルだなぁ。」

リバーシブルな顔って……



<新札は使えなかった>

 合宿場へ行くのは車でも電車・バスでもよく、私は電車・バスで、かなりの人数がそうでした。西湖の横の河口湖までは電車、そこからバスです。

 この前年末ですが、新しい紙幣が発行されました。一万円札が聖徳太子から福沢諭吉へ、五千円札が聖徳太子から新渡戸稲造へ、千円札が伊藤博文から夏目漱石へ替わろうとしていた時期です。この春合宿の頃、東京ではほとんど新紙幣になっていました。

 河口湖でバスに乗り換え、合宿場の近くのバス停でジャズ研のみんなが降りようとした時です。新札で払おうとすると、バスの運転手が、

  「新札は使えませんので。」

ナニーッ!これはゼニぢゃ、ゼニ!それも新品ぢゃ!使えんっちゅーのはどういうことぢゃ!……外国?バカな。でも使えません。新札は、

  人生ゲームのお札

です。ジャズ研の人たちで誰か旧札を持ってないか探したが1枚もない。という事は持ってる紙幣は全部、

  だめちん

みんなで持っていた小銭をかき集めて……何とかなりました。ったく合宿初日早々、何という事……



<西湖自転車一周と変な犬>

 中日(なかび)です。この年の中日のイベントは西湖自転車一周でした。

 貸し自転車をやっている所があったのですが、そこに犬がいました。この犬……春は犬の○○の時期です。この犬はオスです。合っているかどうかわかりませんが、犬の気持ちになってみましょう。

  「嬉しい!」
  「こんなに沢山の人が来て!」
  「これで子供が出来るよ!」
  「ねえねえ!」
  「もう我慢できない!」

人に向かって何という事をする犬でしょう。先輩に向かって……「これは違うんだ」と諦めた犬、今度は私の足に……毎年こうでした。人慣れし過ぎた名物の犬でした。

 自転車は1人1台ずつ借りますが、2人乗り自転車も何台かあり、私はそれに乗る事に。私が前、先輩のKR田さんが後ろでした。あれって結構大変なんですよ。2人で一生懸命こぎます。道には初日に降った雪がまだ沢山残っていて、脇は雪だらけです。

 途中、信号でもあったのか、

  「あっ!あぶなーい!」
  「ブレーキ!」

自転車には2人分の体重が乗っかっていて、地面は雪です。

  「ブレーキが効かない!」

何と前方には雪のデカいかたまりが……

  「止まらない!」
  ……
  ボム!!

何でこうなってしまうのでしょうか……



<トライアングル>

 最終日の前日の夜、打ち上げ&セッションです。みんなが色々演奏した後、私は誰かが持って来たトライアングルで参加。ドラムに座っているのは同期のトランペットのEve。昔ドラムもやっていたらしい。サンバだか16ビートだかの曲をやり始めます。私はEveの横でトライアングルで16ビートを刻みます。右手で往復で鳴らし、左手で手元を握ぎったり離したりするってやつです。途中、先輩のMC月さんがニコっと笑って親指をたてて「Good!」のサイン。おっ、イケてるらしい。何だかEveのドラムもいいぞ。

  「じみたはピアノより
   トライアングルのほうがいい……」

このセッションはとても楽しかったです。




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